アート・イン・ライフ フォーラムが開催されました。

「もっと生活にアートを!アートが生活を変える」をテーマに、山村レイコさんとセーラ・マリ・カミングスさんを、国の重要文化財である大日本報徳社大講堂にお迎えした。
お二人の組み合わせは史上初。当日は111人もの方が参加した。
まずはそれぞれのフリートーク。

「振り返れば、何を見ても私は感動している。今も毎日が感動だ」
山村さんは18歳の頃、全国をバイクツーリングした時の手記『日本一周乙女の一人旅』をバイク雑誌に連載し、著述活動を開始。1987年、憧れだったアフリカの地を訪れ、海外ラリーにのめり込んだ。
「砂漠でのレースでは見渡す限り何もないが、地平線がずーっと広がっていた。地平線がアートだった」
元々自然が大好きだった山村さんは1995年に富士山麓・朝霧高原に移住した。「野菜や花など育てることによって、地球に生きている感じがした。何気ないものでも、よくみればたくさんの感動がある」散歩にでては写真を撮り、見るものすべてに感動したと山村さんは語る。身近な場所にもアートはあるのだ。
「人間がつくりだすものもすごいが、自然がつくりだすものには勝てない。朝霧の冬はとても寒いが厳しいからこそ、その景色が見える」山村さんは「夢は次々と追いかけて行きたい」と熱く語った。

「会社に入ったとき、立場がなかった。でも逆に考えると、名刺も肩書きもないことは、自由にやれることだと思った」
セーラさんは、ペルシルバニア州立大学在学中に日本に留学。卒業後1994年に株式会社小布施堂に入社した。入社当初は会社に仲間がいなかったと語る。「企画を立ててもいつも拒否、否定された。でも20代・30代は怖いもの知らずで、どんどん企画を提案した」
1997年には株式会社桝一市村酒造場の再建築に取り組み、半世紀前までやっていた木桶(きおけ)の復活を大杜氏(おおとうじ)に提案した。
「職人は頑固な人が多いし、外国人=反対と思われがちだが、一番最初に応援してくれたのは職人さんだった」
仕事をする以上はいい仕事をしたいと思う、共通の心があったからだ。
「バツ【×】を前向きに考えれば、プラス【+】になる!それは、自分だけではない」と教えてくれた。
それぞれのお話のあと、対談が始まった。

アイディアを出すといつも却下されていたセーラさんだが、「それは自分の受け止め方次第」と言う。
「かしこまって考えると中々動けないが、楽しい方向に考えれば体が動く」山村さんも、「諦めないことを、プラスに持っていこう」と語る。
「昔から諦めが悪かった」と笑いながらセーラさんは言った。でもその反対意見のおかげで鍛えられてきた。山村さんもアフリカに行くと言った時、親は大反対。
「でも、そんな壁があったからこそ絶対に曲がらない強い意志ができた」
「日本は小さなものを大切にしていたのに、今はどんどん拡大していっている。
細かいものをもっと磨くべきでは」とセーラさんは考えている。
山村さんの口癖は「もっと小さく」である。
「ラリーも、若い頃は小さい大会から大きな大会に進んでいったが、色々挑戦したからこそ気持ちのいいサイズが分かってきた」
人が見ての形ではなく、中身が大事だということだ。
山村さんの夢は、「朝霧に来ると、空気がよかったり富士山がキレイだったり、病気の人が完治ではないが元気になってくれる、そんな空間をつくりたい」
セーラさんの夢は、「今まではチャンスがあったからこそ、挑戦できた。これからは一人でも多くの人が、挑戦できる場所を広げていきたい。一人では出来ないチーム作りをしたい」
対談後、参加者からの質問の中で、お二人はこう答えられた。
「40代までは怖いもの知らずで、夢に向かっていつも走っていた。でも、今は今のペースで歩けるようになった」
自分のそんなところが変わったと山村さん。
「農業を拠点にして、色々な人が集まる場所をつくりたい。そして何があっても感謝の気持ちを忘れず、嫌なことを言われても言ってくれてありがとうと思う気持ちが大事」セーラさん自身のコンセプトである。

最後に、とうもんの里の名倉さんからお二人へのお願いがあった。
「農家のみんなは道徳は持っているが、経済が成り立たない。農業の素晴らしさを伝えたいが、私たちだけでは全国に届かない。お二人から届かない気持ちを伝えてほしい」
参加者からは、お二人の“今、自分に出来る事を、諦めないで続ける姿勢”に感銘を受けたという声が寄せられた。

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