掛川城二の丸御殿
近世城郭において、天守は武威の象徴として、御殿は権威演出の舞台として、どちらも武家政権の重要な役を担う建物でした。
御殿は藩政の庁舎、藩主の住居空間であるとともに、書院造の殿舎、襖絵(ふすまえ)・杉戸絵(すぎどえ)・天井板絵などの障壁画(しょうへきが)、押板(おしいた)・棚(たな)・書院(しょいん)・帳台(ちょうだい)からなる座敷飾り(ざしきかざり)は、いずれも日本建築史上、最も豪壮華麗と言われています。一般的に近世城郭といえば天守がイメージされることが多いのですが、江戸時代の城郭の中心であり、武家文化の真髄は、まさにこの御殿にあったと言えます。
御殿建築は書院造(しょいんづくり)と呼ばれる建築様式で、様々な用途に応じて多くの殿舎(でんしゃ)や付属建物が建ち並ぶ豪壮かつ華麗な建物群でした。「表向」(おもてむき)と「奥向」(おくむき)に明確に区分され、身分や職務によって人の出入りには厳格な規制がありました。
表向は、御殿の表側に配置され、公的行事や藩政実務が行われた空間です。玄関棟(げんかんとう)・広間棟(ひろまとう)・書院棟(しょいんとう)で構成され、家臣との対面や上使(じょうし)の饗宴(きゅえん)などの儀式が執り行われました。特に広間棟と書院棟は規模が大きく、御殿を象徴する建物でした。また、広間棟・書院棟には付随して能舞台(のうぶたい)や庭園が設けられ、殿舎だけでなく屋外をも包括したハレの空間が構成されていました。
奥向は、藩主の居住空間、私邸とも言うべき建物群です。藩主の居間や御殿女中が居住する建物や奥向用の台所などで構成されていました。表向の建物は、江戸時代を通じて配置に大きな変化が認められないのに対し、奥向では生活様式の変化や藩主の趣向を取り込み様々な展開をみせ、結果として何度もの建て替えが行われました。
御殿は、天守・櫓・門などの他の城郭建築に比べ現存する数は極めて少なく、全国で現存するのは二条城二の丸御殿(国宝・世界遺産)、川越城本丸御殿(玄関・大広間のみ)、高知城本丸御殿(国重文)、掛川城二の丸御殿(国重文)の4例のみです。
掛川城二の丸御殿は、嘉永7年(1854)の大地震によって掛川城の諸建築が崩壊、被災した本丸御殿に代わって、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて二の丸に新たに造営された御殿です。
殿舎は7棟からなる書院造、木造瓦葺平屋建(もくぞうかわらぶきひらやだて)です。起破風(むくりはふ)と蕪懸魚(かぶらけぎょ)が特徴的な車寄玄関(くるまよせげんかん)を入ると、広間(ひろま)・御談の間(ごだんのま)へと続きます。書院棟(しょいんとう)は、主室(しゅしつ)である御書院上の間(ごしょいんかみのま)と、謁見者(えっけんしゃ)の控える次の間(つぎのま)・三の間(さんのま)からなり、対面儀式が執り行われました。書院棟の北に連なる小書院棟(しょうしょいんとう)は、藩主の執務室である小書院(しょうしょいん)と次の間(つぎのま)からなり、さらに小書院の奥には、藩主の居間である長囲炉裏の間(ながいろりのま)があります。
書院棟・小書院棟の東側は、藩政を司る諸役所の棟で、目付(めつけ)・奉行(ぶぎょう)などの役職の部屋、警護の詰所(つめしょ)、帳簿付けの賄方(まかないかた)、書類の倉庫である御文証(ごもんしょ)などが連なります。小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去されました。
創建当時でも総面積1,091㎡と御殿としては小規模な部類で、造りとしても華美さはなく瀟洒(しょうしゃ)な趣が見られ、公式式典の場・藩主の公邸・藩役所という3つの機能が比較的コンパクトにまとめられおり、往事の地方藩主の御殿の様相をよく表しています。また、幕末の震災後という特殊状況下で造営された御殿としてその存在意義は大きく、それも掛川城二の丸御殿の特徴と言えます。昭和55年(1980)に国の重要文化財に指定されました。
