掛川城天守

 掛川城が位置する掛川は東遠江(ひがしとおとうみ)の中心に位置し、東・南・北を低丘陵に囲まれた盆地状の沖積平野に展開する平山城(ひらやまじろ)です。古代から東西の主要幹線である東海道と、駿河湾相良湊(さがらみなと)から秋葉山(あきはさん)を経て北遠(ほくえん)・信州に至る南北主要幹線である秋葉道(あきはみち)(別称、塩の道)が交差する要衝に位置し、戦国期においては駿河守護今川氏の橋頭堡に位置づけられていました。

 掛川城の創築は、16世紀初頭、今川氏が遠江経営のために重臣朝比奈氏(あさひなし)に築かせた掛川古城(かけがわこじょう)に始まります。その今川氏の遠江での勢力拡大に伴い、古城から現在の地に新城として創築しました。
 永禄3年(1560)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)によって今川義元(いまがわよしもと)が討たれると、武田・徳川は弱体化した遠江へ侵攻を開始しました。武田信玄(たけだしんげん)によって駿河(するが)を追われた今川氏真(いまがわうじざね)は掛川城へと逃れると、三河(みかわ)から侵攻した徳川家康(とくがわいえやす)が朝比奈氏と今川氏真のこもる掛川城を攻めました。半年間に及ぶ攻防の末、掛川城は開城、徳川の城として対武田の橋頭堡として改修されました。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による天下統一後、家康は関東に移封、掛川城には山内一豊(やまうちかつとよ)が入城しました。一豊は最新の城郭技術をもって城内城下の大改修を行いました。このとき掛川城ではじめて天守が造られました。その後、松平・太田家をはじめとする徳川譜代大名の居城として明治維新まで続きました。

 最盛期の様相を示す「正保城絵図(しょうほうしろえず)」を参考に掛川城の縄張りを見てみると、丘陵最頂部の天守丸(てんしゅまる)を最奥にとり、本丸(ほんまる)をその前面に配し、さらに二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)をはじめとする主曲輪(しゅくるわ)がそれらを取り囲む、いわゆる梯郭式縄張り(ていかくしきなわばり)という縄張り型式です。城山の南を貫流する逆川(さかがわ)を外堀(そとぼり)として取り込みその内側にも松尾曲輪(まつおくるわ)が配され、本丸の防御を強固なもとしていました。特に、掛川城の主要部、最大の防御線である内堀(うちぼり)(別称、松尾池:まつおいけ)・三日月堀(みかづきぼり)・十露盤堀(そろばんぼり)の3つの堀によって形成された本丸虎口(ほんまるこぐち)は、中世末から近世かけての城郭縄張りの先端技術である枡形虎口(ますがたこぐち)を指向した技巧的な虎口形態でした。

 天守の建つ天守丸(てんしゅまる)は、標高56mを測る丘陵最頂部に位置します。本丸から天守丸への登城路は、発掘調査結果と城絵図を基に折れを多用した道筋として整備されており、それほどの長さではありませんが、一気に登るには息が切れます。安易に人を寄せ付けない城本来の攻守に重きをおいた堅牢さがわかります。
 天守下門跡(てんしゅしたもんあと)を経て天守丸に着くと、ことのほか狭いことに気付きます。天守が建つためだけにある曲輪なのです。平成6年に復元された木造天守は初期望楼型(しょきぼろうがた)と呼ばれる型式で、外観三重、内部四階、6間×5間(約12m×10m)の規模は決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓(つけやぐら)を設けることによって外観を大きく複雑に見せる工夫がされています。狭隘な天守丸から仰ぎ見る天守は、白壁と銀鱗(ぎんりん)の甍(いらか)による端正な趣のなかにも無骨な石垣、威嚇する武者返が同時に視界に入り、威風堂々とした勇猛さが感じられます。

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