竹の丸について

掛川城の廓「竹の丸」

戦国時代、今川氏、徳川氏の支配下にあった掛川城は、現在の天守・本丸・二の丸・三の丸、そして天守と本丸の西側を囲む中の丸の部分であったと思われます。
天正18年(1590)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭を付け加え、城を拡張しました。この時に、竹の丸も造成されたと考えられます。
いつ頃から竹の丸と呼ばれていたのか明らかではありませんが、18世紀初頭に描かれた「遠州懸河城郭図」(兵庫県尼崎市立図書館蔵)には、「竹ノ丸」という表記があり、当時こう呼ばれていたことがわかります。
江戸時代の掛川城の絵図を見ると、竹の丸は、掛川城の出入口の一つであった北門を望む場所であることがわかります。郭の北端に土手を巡らせ、土手の外側には外堀が水を湛えていました。北門から城内に続く道は、竹の丸の南東角で、東・南・西へ別れる三叉路となっていました。西に向かう道をそのまま進めば中の丸、竹の丸の向かいにあった裏門を潜れば、二の丸へと通じていました。
このように、竹の丸は北門の守りを固める位置にあり、また、天守閣や本丸等の城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老等重臣の屋敷地に割り当てられていました。

旧松本家住宅「竹の丸」

明治36年(1903)、代々掛川城下の中町で葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が、竹の丸に本宅を建てました。
松本家は、寛政元年(1789)から、掛川藩に金子を用立てている記録があり、19世紀に入ると、藩から御用達を命じられ、上下・小袖を拝領、苗字・帯刀を許されました。
葛布は掛川宿の葛布問屋によって江戸等へ出荷されていましたが、幕末になると旧来からの流通機構が乱れはじめました。そこで、掛川藩は、安政5年(1858)に葛布取扱問屋を指定して、指定問屋以外の商人が他領へ葛布を販売することを禁止しました。
この時の取扱問屋のひとりに松屋市右衛門の名が見え、その後の明治2年(1869)、明治5年の問屋のひとりに松本家は名を連ねています。
明治時代になると、松本家は、掛川地域の財界を代表する有力者として名を見ることができますが、家業の葛布問屋をいつ頃まで営んでいたのか、はっきりわかりません。
昭和11年(1936)、松本家が東京へ転居するに当たり、竹の丸の邸宅は当時の掛川町に寄贈されました。
竹の丸は、戦後、市職員の厚生施設として利用されるとともに、柔道・弓道の練習場、調理実習の場等として市民に活用されてきました。
そして、平成19年6月から修復工事が行われ、明治時代末期から昭和時代初期の松本家の姿に復元整備されました。